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ココロ失踪(世界樹 リパ×フェン)

  • kazenoryu-beibei
  • 2023年5月8日
  • 読了時間: 18分

 冷たく澄んだ風が、ゆるやかに夜明け前の空気を攪拌していく。  少し前に一番鶏は鳴いたが、まだ辺りは暗い。この時間、村の中は嘘のように静まり返っている。  自分が繰り出す素振りの音が、否応なしに耳に響いた。 「はっ、……せいっ」  額から汗が飛ぶ。子供の頃から続けてきた習慣だった。わたしの瞳には、いわゆる星がある。家族はわたしが生まれたとき、そのちいさな星におおいに期待を寄せたという。  特に祖母などは、成長したわたしが騎士団に入り、活躍することを夢見ていた。

 まだ幼かったわたしは、うなずいた。  家族の願いなのだから叶えてやろうという程度の、軽いものだった。  けれどもその日から、わたしは木刀を振り続けている。何かしら理由がない限りは、同じ時間に起床して。 「ところで」  いつまでそうしているつもりですか、と。素振りを切り上げたわたしは彼に問う。ちらりと振り返れば、彼は手頃な岩に腰掛けていた。傍らにはリーパーの象徴とも言うべき大鎌。  猛禽類を思わせる立派な翼が、リラックスした様子で風に揺れている。  多くのリーパーは、装飾として背中を黒翼で飾る。しかし、彼の場合は自前である。実際に背中から生えており、――その辺の事情は複雑なので、今は言及しないが。 「わたしはそろそろ家に戻りますが、ユアンはどうしますか」 「僕かい。そうだなぁ。もう少しその辺をふらふらして戻ることにしようかな」 「そうですか」  では、後ほど。わたしはユアンに一礼をして、その場を離れた。  ユアンは岩に腰掛けたまま、手を振ってくれる。わたしは一瞬迷って、もう一度頭を下げていた。  かつては共に世界樹を登った仲である。それでも、今はお互いの立場と身分がある。

 がち、と鎧のこすれる音がした。 「――副団長」 「何ですか」  わたしは部下達へと一瞥をやる。寝ぼけた田舎の景色に、王宮騎士団の鎧は、いかにも不協和音を奏でている。まだ家の者達が眠っている頃合いでよかった。  ひそかに安堵するわたしに、部下の一人が言った。 「申し訳ありません。発見できませんでした」 「そうですか」  見つかるわけがないな、と思う。  数日前、女王陛下の賓客が姿を消した。当然ながら、国の一大事である。本来であれば。 だが――

 わたしは溜め息と共に振り返る。  岩の上にはすでに人影はない。「散歩」に出たユアンを捜し出すことはおそらく不可能だ。冒険者時代から変わらない彼の悪癖に呆れつつも、わたしは頃合いを見て、部下達に撤収を命じる必要があるな、――と考えていた。  

      ***

 ユアン失踪の件について、陛下は鷹揚だった。 「きっと用事を思い出されたんですの」  一緒にお茶を飲めないのは残念がっていたが、それも仕方がないことだと。実際、ユアンが理由なく王城から抜け出すはずもなかった。  気まぐれな人である。さりとて、薄情な人ではない。むしろ責任感は人一倍に強く、――ただ、著しく協調性に欠けるというのが、玉に瑕であった。

 彼は白蛇王の、一番上の息子に当たる。つまり王族なのだが、随従を持たないのが特徴だ。彼は常に一人で行動したがる。柔和な笑みを浮かべる一方で、彼は独断専行の権化のような人なのだった。  冒険者時代の彼も、やはり単独行動が目立った。いつの間にか集団から離脱しており、いつの間にか合流している。  叱ったところで効果は薄い。彼は存外に頑固だった。そんなわけで、今回も、私も陛下も、彼の失踪はまったく納得の範疇であった。  かといって、心配しないわけにも行かない。  発作を起こしてどこかで倒れているのではないかと、案じている矢先に彼は姿を現した。  生まれ育った村で、しばしの休養を取っていたわたしの元へと。

「王城に連れ戻すのは、少し待ってくれないかな」  悪びれもせずに言ったものである。わたしは呆れた。その上で彼の行動を黙認している。つくづく、部下達は気の毒だが……。 「この村のどこかに居るはずなんだよね」 「何がですか」 「副団長の君が動けば、相手は間違いなく動揺する。そうなれば、誰に被害が飛び火するか、わかったものじゃないよ?」 「……貴方一人なら問題ないと?」 「そう。僕はここに居るはずがない人間だからね。警戒される危険性は低い」  そう言った彼の目には、確信の色が合った。

 ユアンは最初から、別の目的を持ってこの国を訪ねてきたのだろう。王を隠れ蓑に利用するとは、不敵にもほどがあるけれども。 「わかりました」  彼の言い分は正しい。何より、ユアンは隠密行動のプロだ。どの程度の脅威を相手にしているのかは不明であったが、並大抵の敵であれば、気取られることなく動けることだろう。  何よりも、彼には王族としての矜持がある。自ら行動することで迅速に危険を排除し、犠牲を最小限に留めるという信念だ。  それはわたしにとっても、望ましいことであり。


「はぁ……」  そのはずなのに。現実のわたしは、溜め息をついている。  わたし個人の感情と、副団長としての割り切り。どちらが大事なのかは、わかりきっている。わかっているくせに、わたしは不満だった。  何が不満なのか?  彼のことが心配で。でも一緒には行動出来ない。心配なのに、何も出来ない無力感があった。  冒険者の頃から、――否、出会った頃から変わらない。

「ただいま~」 「ああ」

 戻ったのですね、と。わたしは思考を切り上げて、扉の方を見やる。  まさか野宿をさせるわけにも行かないので、滞在期間中はわたしの家を拠点にしてもらっている。これだけは、わたしも強く、彼に頼み込んだ次第である。  両親には冒険者時代の友人だと言ってある。嘘はついていない。  ユアンはちょっと複雑そうだった。 「格好つかないなぁ……」  椅子に腰掛けながら呟く。居間のテーブルを挟んで、ちょうどわたしと向かい合う位置。わたしは首をかしげた。 「ユアン?」 「うん、君の両親は善良だ。少なくとも、友人としての僕にはたいへんに親切にしてくれる。ついでに僕が大鎌使いであることを知るなり、畑の草刈りを命じる気安さもある」 「それは、ごめんなさい」 「いいや」  新鮮な体験だったと微笑するユアンであったが、わたしからすると、気が気ではなかった。

「しかし今、格好がつかないと」 「ああ、それは草刈りじゃなくてね。今の立場だよ」 「ひこ。立場ですか」 「そう」  うなずいたユアンの表情が、微笑から苦笑へと変わった。 「君に求婚したこと、ご両親にも言わないとね」 「えっ?」  心臓が跳ねた。  見事な不意打ちだった。わたしは狼狽えそうになる自分を鼓舞してどうにか理性の領域へと踏み留まろうとする。

 父は畑に行っているし、母は近所のご婦人方と談笑している。家にはわたしと自分しかいないことを理解した上で、彼はこの話題を持ちかけてきたようであった。 「今は、騒ぎになっちゃうから難しいけれどね。必ず伝えるから」 「……はい」  自分の左手に視線を落とす。  籠手を付けているから見えないし、直接触れる事も出来ないけれど。彼から貰った指輪は、ずっと身につけている。  視線を感じて目をやると、彼と目が合った。わたしは自分の胸が、あたたかく弾むのを感じた。  不慣れだが、心地よい感覚だった。

 ――終戦からおよそ一年半。久しぶりに二人で訪れた冒険者の街で、わたしは彼から結婚を申し込まれた。素晴らしい満月に見守られるように、わたしはその申し出を承諾したのである。  きっとわたしの片想いで終わるだろうと、思っていたのに。 「よぉし、今日の夕飯は僕が作ろう。何かリクエストはあるかい?」 「ひこ? えっと、腸詰め入りのシチューが食べたいです」 「ふふふ、了解」  普段より働き者になっているのは、実は彼なりの照れ隠しだったのではあるまいか。そう思うと、わたしも破顔せずには居られなかった。

      ***

 ユアンが我が家で寝起きするようになってから、三日が過ぎた。  父は彼のことを「別嬪」と評していた。それは彼が、男性だと理解して尚、そう呼んでいるらしかった。  母の方はより単純に「愛想のいい人ね」と言っていた。  ユアンは白蛇の民だが、普段はうすく化粧をしているため、白蛇特有の青白い肌もわからなくなっている。周囲に溶け込むということに関しては、やはりさすがと言うべきか、彼は村の中において、畑に立つかかしと同程度の存在感に自分を落ち着かせていた。

「じゃあ、ちょっと出掛けてくるから」 「気をつけて」 「うん」  そうして普段通り、その日も彼が「散歩」に出掛けていくのをわたしは見送った。普段通りという言葉の通りに、それがこの三日間における日常と化していたのである。 「副団長……」  呼びかけてきた部下は、だいぶ音を上げている印象だった。わたしは苦い笑いと共に、帰還して休むように彼らに伝えた。

 思うに、彼が追っている敵は、国中を捜索して回っている騎士団の方を警戒していることだろう。 ユアンの失踪は公にされていない。彼は何事もなく女王陛下に謁見し、昨日のうちには帰国したことになっている。陛下も利用されていることに気付いているはずだが、けれどこれまでの信頼関係から彼に協力することを選んだのである。まったく。  わたしの休養は明日で終わる。場合によっては、彼よりも先に王都に向かうことになるのかもしれなかった。

「挨拶は、またの機会に――ということになりそうですね」  わたしは呟いていた。  自分で考えている以上に、わたしは落胆しているようだった。  両親にも求婚の許しを得ようという、彼の気持ちが嬉しかった。同時に、わたしは自分の視野の狭さを恥じていた。  婚姻とは、当事者二人だけの問題ではないのだ。  それを忘れて、わたしは舞い上がっていた。考えてみれば、彼との結婚に両親がいい顔をするとも思えなかった。白蛇と封狼は元々、戦をしていた国同士なわけだし。  良くも悪くも平凡な民である父と母が、他の封狼人のように、白蛇への偏見を有していないとも断言出来なかった。  何よりも、身分の差があるのだ。正妃など望むべくもない。籍の上ではどのような扱いになるか、またその扱いを両親がどう受け止めるのか。

 それらの問題に、ユアンは向き合おうとしてくれたのだ。  その機会が、遠退いていく。 「しかたがないことです」  わたしは自分にそう言い聞かせた。それでも感情はなかなか言うことを聞いてくれなくて、素振りのリズムは狂い続けた。

      ***

 午後になると、にわかに天気が怪しくなってきた。  窓際で芋の皮を剥く手許が暗くなり、もしやと思って顔を上げれば遠雷が響いてきた。 「困りましたね……おかあさ」  呼ぼうとして、母もいないことを思い出す。両親は作物を売りに、市まで出掛けている。帰ってくるのは夕方、しかし、この天気では足止めを食らうかもしれない。

 ユアン、は、やはり戻ってきていない。  彼が戻ってくる時間は一定しない。それでも、まさか雨が降り出す前には戻ってくるだろう。わたしはそう考えて、芋の皮を剥く作業を再開した。  今日はわたしが当番だから、これでポテトサラダでも作ろう。昨日、彼が作ってくれたシチューがまだ残っているから、あとはパンを添えて。

「……」

 気が付くと、手が止まっていた。  窓の外を見やる。  雨だ。  はじめは微かな雨音であったのに、あっという間に勢いを増して、地面を叩くような音になった。雷の音はじょじょに近付いてくる。

「ユアンは、傘を持っているでしょうか」  どこかで雨宿りをしているだろう、と冷静に考える自分がいる。けれどその自分は、感情的で臆病な自分を押し止めるには力不足だった。  わたしは傘を持って、家の外に出ていた。  辺りを見回す。  軒下では、放し飼いの鶏達が雨から逃れている。村の喧噪は雨音にかき消えてしまい、視界も不明瞭であった。 「ユアン!」  人影は見当たらない。村人は皆、家の中へと避難している。きっと彼も――そんなことは、わかっているのに。 「ユアン、どこですか」  自分用の傘を差して、駆け出す。舗装されていない道はぬかるんで、油断すると足を取られそうだ。けれど慣れている、このぐらいの悪路なら見習い時代の訓練で、嫌というほど歩かせられたものだ。  村中を駆け回っても、彼の姿はなかった。

 今度は畑へ向かう。 彼は何度か、草刈りや害獣退治を村の人に頼まれていた。それで、今日も畑にいるのではないかと考えたのである。  前方に人影が見えた。  ほとんど土砂降りの中に、ぼんやりと佇む影。 「ユアン!」  足が速まった。全力で駆け寄っていく。佇んでいる、否、それにしては頭の位置が低い。 しゃがんでいるのか、何かトラブルに遭遇して――傘を手放して、雨の中に飛び出す。到達した、やっと。 「あ」  目の前で影が倒れた。わたしは影の主を抱き起こすでもなく、呆然としていた。

 人ではない。かかしだ。

 畑には誰もいない。雷が思い出したように、激しく鳴った。  視界が雨に塗り潰されていく。全身が濡れて、重たくなった。髪や衣服が纏わり付いてきて、鬱陶しい。 「何をやっているんだい」  すい、とすくい上げるように視界が確保される。傘。そして声。 「入れ違いになっちゃったみたいだから」 「……そう、ですか」  ご迷惑をおかけしました、と。返す言葉は震えていた。情けない。  会えてホッとしているはずなのに、彼の顔を見る度胸がなかった。彼はちいさく息を吐くと、わたしの手を取った。

 体温の低い手。  それでも、濡れて熱を奪われたわたしの手よりは、ほんのりとぬくもりを宿している。 「帰ろ」  そのまま、手を引かれて歩き出す。  また雷が鳴った。彼は悲鳴を上げて駆け出す。わたしも無言のまま彼に速度を合わせた。

      ***

 家に帰り着くと、彼はタオルを持ってきてくれた。自分だっていくらかは濡れているだろうに、わたしのことばかり気にかけてくれる。 「部屋に行こう。着替えないと、風邪引いちゃうよ」 「はい」  わたしはようやく、彼の顔を一瞥した。  化粧が落ちて、顔の輪郭は青白い白蛇の素肌を晒している。細い顎からは、水滴が滴っていた。 しかし彼は、わたしを椅子に座らせると、無心になって頭をタオルで擦り始めた。 「水も滴る騎士様になっちゃったね。はい、次はほっぺたを拭くよ」 「あの」 「何だい?」  手を動かしながら、顔を覗き込んでくる。遠慮を感じさせない距離感だった。鼻先が、もう少しでぶつかりそうな。

「ユアン」 「うん、聞いてるよ。着替えは自分でやってね。この前、妹の着替えを手伝おうとしたら全力で拒否されて若干傷ついた僕だから、ん?」  おそるおそるで手を伸ばす。指先が彼の衣服に触れた瞬間、掴んでいた。強く。思いきり。  頭突きをするように彼のひたいへと、自分のひたいを押しつけながら。

「かってにいなくならないでください」

 一気に吐き出していた。それはこの場に相応しい言葉ではなかった。もっと前から溜め込んでいた、わたしの本心で。 「ミントさ」 「どうしていつもひとりでもんだいをかかえこむんですか、もっと」  もっと頼ってよ。  わたしだって無力じゃない。戦える。力を付けたのだ。  そのために、あなたの傍にいたいのに――  言いたいことが、洪水のように押し寄せてくる。わたしはまくし立てていた。どれもこれもが場違いで、必死で、言いたいことだった。

 ユアンは黙って、わたしの癇癪に耳を傾けている。  ぽん、と頭に手を置かれた。 「ごめんね」 「あやまるくらいなら、もう」 「でもね。僕はこれからも一人で行動するだろうし、それは君を信じていないからじゃない」  わたしは目を見開いていた。絶望が喉を塞ぐ。息が出来ない。口をぱくつかせるだけになったわたしの頭を撫でて、彼は言った。 「君は人を殺めるのに慣れていない」  口調は静かなのに、強い意志を感じさせる声だった。 「慣れさせるつもりもない。これからも」 「――」  それはあまりにも。

 あまりにも彼らしい、我が侭だった。  誰にも砕くことの出来ない、不屈の決心でもあった。  ユアンの目を見る。  顔中から笑みが消えて、刃物のような鋭さを放っていた。  三百年間、祖国を守り、父王に仕えてきた。  人を殺し続けてきた、人間の目だった。

「君が待っていてくれるから、僕は帰ろうって思えるんだ。血を吐いてもどうなっても、帰って君に会いたい」  わたしは彼の吐露を、歪んでいるとは思わなかった。ただ、哀しいとは思った。彼は魔物としての自分を嫌っている。そのくせ、本能的な願いからは抜け出せないでいる。  何があっても番の元へと戻ろうとする、帰巣本能。  一夫一妻を貫く、猛禽類としての一途さ。  賢い彼は、気付いているはずだった。  だから普段は目を背けているし、口にも出さない。 それをあえて訴えたのは、わたしの言葉への返事のため。本心には本心で以て応えるという、彼の誠意だった。

「ごめんね」  彼はそう繰り返す。わたしはかぶりを振っていた。 水滴が盛大に飛んで、辺りにしみを作る。 「わたしの方こそ、見苦しい姿を」 「僕のために怒ってくれたんだよね。嬉しいよ。……でも、たぶん他の女の子にここまで想われたら、ちょっと重いかもしれないな」 「わたしならいいのですか」 「うん。だっていい気分だもん。ふふ」  やっと彼の顔に笑みが戻る。ユアンはよく笑う。けれど本心からの笑みというのは少ない。それがわかっているから、わたしも嬉しかった。

「くしっ」 「わ、大丈夫?」 「へいき、です……が、やはり寒いですね」 「そっか」  彼は慌てたように、タオルでわたしの肩を擦った。 だが、そのそばから水滴はわたしの全身を伝い、椅子や床を濡らしていた。ユアンは途方に暮れたように唸る。 「……もどかしいなぁ……」 「すみません」 「いや。ちょっと、待ってね」  一旦身体を離すと、彼は視線を彷徨わせた。  何度か逡巡するようにわたしと部屋の壁とを見比べた後で、椅子をもう一脚、持ってきた。わたしの前に置く。  何かと思えば、自分が座って。

「? あの、ユアン」  ふわり、と頬を撫でるものがあった。やわらかな濡れ羽色の羽毛。  彼の翼だった。 「わ、あ、ちょっと待って下さい、ゆ」 「嫌だったら言ってね」  そう言うと、わたしのことをそっと抱きしめた。翼が伸びて、わたしを包み込む。  これなら確かに、タオルよりずっとあたたかい、けど。 「これでは、貴方が濡れてしまいます!」 「風邪を引いたら君に責任を取って看病してもらうから、何も問題はないよ」 「何ですかその理屈はーっ!」  わたしは両手で彼の胸元を叩いたが、効果はなかった。 「いっそ完全に鳥になろうか?」 「け、けっこうです! というか、こんなに狭い部屋で魔物化されたら部屋からはみ出しますよ!」 「そうかい」

 もふもふ、と彼が動くたびに羽毛でくすぐられているようで。  彼の気遣いは有り難いけれども、うっかり笑い出してしまわないように苦心するわたしなのだった。

      ***

 夜。  気が付いたらその時間は訪れていて、雨音は止んでいた。  わたしはうすく、まぶたを開いた。  自分のベッドに横になっている。着替えを済ませ、毛布を被っている。 枕から頭を持ち上げようとして、気付いた。

 ちゃんと、居る。  ベッドのそばに移動させた椅子に腰掛けて、ユアンが目を閉じている。眠っているのかと思ったが、どうやら違うようだ。 その証拠に時折あくびをしたり、目を開いたりしている。 とくに何を眺めているわけでもない。窓から差し込む月明かりが端整な横顔を照らして、彼を絵画の中の人物のように魅せていた。 背中の翼は折りたたまれて、目立たなくなっている。 ただ――彼をもっとも現実離れした存在にしていたのは、彼が纏う、血のにおいであった。

「仇は取ったよ、ソウジロウ」  わたしが知らない誰かの名前は、まだ語られていない、いつ語られるのかも定かではない、彼の過去の欠片であり。  その呟きと血臭から、わたしは彼が目的を果たしたのだ、ということを理解していた。  わたしは迷った。声をかけるべきか、それとも、寝たふりを続けるべきなのか。  迷った末に、わたしは上体を起こしていた。 「ソウジロウとは、誰なのです?」 「おや、起きていたのかい」 「はい。今しがたですが、目が覚めました」 「そっか」  ユアンは微かに微笑って言った。

「すずの父親だよ。東国の剣聖と呼ばれた人だ」 「剣聖……聞いたことがあります。ですが、彼は病に倒れたとか」  それがどうして、敵討ちに繋がるのだろうか。怪訝に思っていると、彼はひそやかに言い添えた。 「魔物の血を毒物として混入されたんだ。それが当時は、奇病として周囲の目にうつった。厳密に言えば病ではなく拒絶反応による死であり毒殺に近いものだ」 「それは」  人の道を外れた研究の末、魔物の血と特徴を有する人間というものが、稀に存在する。ユアンの場合は、その先祖返りだ。  当然ながら、人の身に魔物の血は有毒である。ゆえに彼らは往々にして拒絶反応に苦しみ、短命でもある。  剣聖の場合は、後天的に魔物の血を注入されたという。

 その結果の死――だとすれば。 「スズネさんには、教えないのですか。実父の死の真相なのでしょう」 「あの子はただでさえ、僕の喀血を見るたびに狼狽えるからね。父親と同じ理由で血を吐くと知ったら、あの子はどう思うだろうか」 「……」  伝えるには、あまりにも残酷な真実だった。  だからといって、彼一人が知っているだけでいいとは思えない。教えるのも黙っているのも酷な話だ。 「あの子次第だよ」  と、窓の外を眺めてユアンは言った。

「あの子が知りたいと願うのなら、それは僕にも止められない。逆のことも言えるけどね」 「ソウジロウ殿は、どのような人だったんです?」 「堅物だね。そのくせ駆け落ちなんてしちゃったんだけど」 「極端ですね」 「僕もそう思うよ」  ユアンは微苦笑を浮かべた。

「僕は過去に三度、戦場で敗れているんだ。そのうちの一つがソウジロウでね。まるで歯が立たなかったよ……すごかったなぁ」 「そんなに強い方だったのですか?」 「強かった。でも、それ以上に人の心がある御仁だったね。僕が人質として捕まっている間、不快な思いをせずに済んだのは、ひとえに彼が僕の名誉を守ってくれたからさ。――まぁ、人質の名誉なんて、矛盾しているけどねぇ」 「大事なことです」  わたしはうなずいていた。人質に対して悪辣な仕打ちを働く者がいるというのは、残念ながらわたしもよく知っている。  しかしソウジロウ殿は、ユアンが解放されるまでの間、用心棒のように彼を守り続けたのだという。  それだけでも、為人がよくわかる気がした。

「最終的に父上と一騎打ちをして、そのときは決着がつかなかった。後に色々あって、再戦の機会があったんだけれど」 「どちらが勝ったのです?」 「内緒だよ」 「ええ!?」  わたしは抗議の声を上げていた。  そこまで語っておきながら、決着だけは教えてくれない、なんて。 「すずとの約束なんだ。彼らの勝負の行く末は、その場で見届けた者だけの秘密にする、ってね」 「……そうですか」  実の娘が関わっているのならば、仕方ない。  頬を膨らませつつも、わたしは引き下がっていた。ふと忘れていた眠気の再来を察知する。


 わたしはちいさくあくびをして言った。 「ユアン」 「何だい?」 「貴方が不愉快でなければ、一緒に」 「……パセリさん」 「ミントです」  どうしてもわたしの名前を他のハーブにしたいらしいユアンだった。

 そんな彼の手を取って、わたしは言う。 「貴方がよく眠れるように」 「ありがとう、……ミントさん」  血臭と雨の匂いの奥にある、彼のぬくもり。それを手繰り寄せるように、彼の手を引く。  目的を果たした以上、ユアンは祖国に戻るだろう。わたしも、騎士団に復帰しなければならない。わたし達が夫婦として寄り添えるまでには道があり、その後も安泰とは言えない。それでも。

 今だけは、こうして寄り添えるから。

 
 
 

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