想い、芽吹くとき(FEエンゲージ スタ×ラピ)
- kazenoryu-beibei
- 2023年5月8日
- 読了時間: 34分
ブロディアに吹く風が、にわかに趣を変えた。 新王が即位したのである。 王太子の時分から戦争に対して懐疑的であった新王は、今後一切隣国への侵略行為を行わないと宣言した。 戦火に乗じて利を得ていた貴族達からは強い反発が起こったが、王とその側近達は怯むことを知らなかった。他国の王族とも速やかに連携を取ると、新たな道へと進み始めた。
「兄上は強いひとですから」 と、彼女の主君は誇らしげに言う。彼も王弟として、新王の補佐に努める日々を送っている。傍目には張り切りすぎて少し心配であったが本人は頓着せずに目を輝かせていた。 今も、書類の山と格闘している最中であったらしい。 そこに臣下である、彼女とシトリニカがやって来た。主君を休ませるための、茶器と焼き菓子を用意して。 「スタルークは本当にディアマンド……あ、今は陛下って呼ばなくちゃね。そう。陛下のことが大好きよね」 「事実として、陛下はこれまでの王様とは違う政策を敷かれているわ。それって、大変なことなんじゃないかしら」 「そうねぇ……」 ブロディアにとっては、大きな転機になるわね、と。シトリニカは細い顎に手を添えて言う。王家の近縁に当たるシトリニカは、政にも明るく、また大貴族の娘らしい洞察力を有していた。
「現状、新体制を支持する勢力は全体の三分の一に留まっているわ。残りはイルシオンとの和平を望まない旧体制派か、どっちつかずの保守派といったところね」 「思ったよりも、反対勢力が多いのですね」 主君が眉をひそめる。 彼女は慌てて、ティーカップに茶を注いでいた。空になっていたというのもあるが、それ以上に。 主君の顔が曇るのを、彼女は是としなかった。 カップに新緑の色をした茶が充ちると、主君の表情がほころんだ。 「わ、ありがとうございます。ラピス」 「いいえ、これぐらい! ……でも、スタルーク様。いったいどこで薬草のお茶なんて知ったんです?」 「セリーヌ王女から聞きました。そのセリーヌ王女はラピスから教わったと言っていましたが」 「ぎくっ」 彼女は顔を強張らせていた。
事実だ。実家でよく飲んでいた、薬草を使った茶。 ふと転戦先で懐かしくなり、久しぶりに作ったところをセリーヌ王女に発見されて。せがまれるまま作り方を教えたのだった。 まさかそれが王族同士の交流を経て、主君の元へと辿り着くとは。 「お茶をご所望でしたら、いい茶葉がありますのに」 「僕には茶葉の良し悪しなんてわかりませんから。それに、このお茶には親しみが持てます。何だかラピスみたいで」 「あらあら」 「そりゃあ、あたしは頑丈なのが取り柄ですけど!」 「そ、そういうことではなくて!」 主君は目をぐるぐるさせながら言った。 「香りを嗅ぐと、気持ちが落ち着くんです……ラピスやシトリニカが傍にいてくれるときのような安心感、というか」 「一応、その薬草には気持ちを落ち着かせる効果があるみたいですけど」 「やっぱり! 薬草って奥が深いなぁ。今度兄上にも」 「それはやめて下さい!」
全力でかぶりを振る彼女と、残念そうな主君と。シトリニカは、その様子を微笑ましそうに眺めている。 以前よりは主君の傍にいる時間が減り、言葉を交わす機会も少なくなった。それでも、こうして共に過ごす時間は穏やかで。
***
自室に戻ると、ラピスは机に向かった。 卓上には包みが置かれている。実家から届いたものだった。 中身はいつも決まって、手紙と、芋の料理。 彼女の故郷は、芋の村と呼ばれていた。その名の通り、芋を主食としている。ラピスも幼少から親しんできたそれはブロディア芋と呼ばれ、他の作物が不作の年でも、逞しく育つのが常であった。 荒れ地でも青々と立派な葉を目印として、その葉が枯れる頃に、芋は収穫される。形は不格好で、他の土地ではまず口にされない。
けれどもその芋を煮たり、焼いたり、蒸したりして、村人達は暮らしを繋いでいた。 「みんな、元気にしているかな……」 近況は手紙を通して把握している。目立った怪我や病人もなく、村は平穏そのものであった。手紙の結びには、たまには帰ってこいという、家族の本心が綴られていた。ラピスは苦笑する。 村を懐かしいと思う。家族に会いたい気持ちもある。 だが、今はまだ駄目だ。主君やシトリニカが奮闘している中で、自分だけのんびりと帰省するわけにはいかなかった。 返事の手紙にもそう記し、――筆先が微かに震えていることにラピスは気付いた。
本当に、それだけの理由なのか? 否、と思う。わかっている。自分の本音は、主君から離れたくないと訴えているのだから。 この気持ちが、行き着く先などない。ラピスは生涯、臣下として主君に仕えると誓っている。思慕は胸に秘めて然るべきであった。 それなのに。 (どうしたらいいんだろう) はじめは、頼りないひとだと思った。それが次第に、彼のひととなりを理解するに従って忠誠心となり、やがて恋が芽生えた。
それが、いかに自分には相応しくない感情であるか。ラピスは理解していた。忘れようとしたし、目を背けたりもした。すべては虚しい足掻きであった。 主君の傍にいれば、それだけ気持ちは強くなった。 彼の意外な芯の強さや優しさに触れるたびに、どうしようもなく心は揺らいだ。 このままではいけないと、わかっている。けれども。 (どうしたら――) この思考に、結論などない。ラピスは逃げるように顔を上げていた。
明日の予定は、何だったろうか。 手紙には自分も元気であることを記し、返事とした。ここに仕送りを添え、あとは。 「ラピス。少しいいかしら」 シトリニカの声だった。相棒の声を間違えるはずがない。ただ、奇妙なのは、声に込められた緊張感であった。 「入って、シトリニカ」 「ええ。……これを見てくれる?」 部屋に入ってきたシトリニカは、薄汚れた紙切れを持っていた。それが相棒の声や雰囲気を鋭くさせているのだと察して、ラピスもまなざしを険しくしていた。 シトリニカは紙切れに書かれた文字を読むように促してくる。文字を視線で追って、瞬間、吐き気がした。
「何、これ」 「安心して。スタルークが発見する前に、わたしが回収したから」
言ったシトリニカの顔も、いくらか青ざめていた。 ――『女を盾にして生き残ったくせに』 紙切れには、そう大書されていた。 「どうして、こんな」 「恐れていたことが、的中してしまったみたいね」 シトリニカは紙切れを丁寧にたたんで、懐にしまった。 顔色はいよいよ優れない。ラピスも唇を噛んでいた。 何だ、これは。 いったい誰が、こんな心ない言葉を書き連ねたというのか。鋭利な刃のような言葉の群れは、主君に向けられていた。
「陛下の敷いた体制に否定的な勢力がいるというのは話したわね」 「ええ、でも、だからといって」 「陛下には隙がないわ。王太子時代から民に好かれているし、素行にも問題がない。でも、それは陛下個人を評価した場合に過ぎないわ」 ラピスはひたいに手をやった。混乱の金槌で立て続けに頭を殴られたような、不快感があった。 これほどの侮辱。 シトリニカはどうして、冷静でいられるのか――否。彼女だって本当は動揺しているはずだ。それを懸命に耐えて、状況を説明してくれようとしているのだった。
そんな彼女をどうして責めることが出来るだろうか。 「為政者としての陛下は、身内を重用し過ぎているのよ。少なくとも貴族達はそう主張しているわ。もっともたる例が、スタルークね」 「そんな……スタルーク様は確かに陛下の実弟だけれど。けど、陛下の側近として尽力されているわ。結果だって出されているし」 「そうね」 その功績を正しく評価するのであれば、と。シトリニカはうつむいた。相棒として、彼女の無念さが伝わってくるようだった。 「他国との架け橋として、また要人との交渉事において、スタルークは必須の人材よ。陛下の人選は間違っていない。――それを覆すために、連中はスタルークを攻撃することを選んだ」 「馬鹿げているわ」 ラピスは吐き捨てていた。
心臓が早鐘を打っている。頭痛と吐き気が、波のように襲ってくる。だが自分の不調に構っている余裕はなかった。 あの主君が。 控え目で、誠実で、優しすぎるあの主君のどこに、攻撃の的にされるような箇所があるというのか。惨いにも程がある。 「ラピス、どうかあなたの力を貸して。わたしとわたしの一族だけでは、スタルークを守り切れない」 「当然よ。あたし達は、スタルーク様の臣下なんだから」 「……ええ」 そうね、とシトリニカがうなずく。そのたおやかな手を取って、ラピスもうなずいて見せた。 「何があっても、あたし達二人であの方を守り抜くの」 「わたし達なら出来るわ。そうでしょう?」 「ええ! こんな卑怯な連中に、負けてたまるか……!」 二人の間で、結束の握手が交わされた。
そうだ。自分達が頑張らなければ。そうして憎き悪漢どもを、返り討ちにしてやるのだ。 ラピスは闘志を燃やしていた。 それは揺るぎないもののように思われた。 けれど――
***
呼び出しにあった理由については、何となく察しがついた。 ラピスを呼び止めた使いの者が口にしたのは、シトリニカが折に触れて名を挙げていた、旧体制派の貴族であったから。 赴くと、二人の男性貴族が部屋で待ち構えていた。二人は椅子に座していたが、ラピスは着席を許されなかった。 まるで、尋問を受ける罪人のような扱いである。加えて、今のラピスは孤立無援である。
だが、逃亡は最終手段だ。敵を目の前にして臆するようでは、あのひとの臣下など名乗れない。 そう結論づけて、視線を戻す。 むやみやたらと財力を見せびらかすような者達が、ラピスは好きではなかった。シトリニカのような瀟洒さもなければ、ただ無意味な光沢だけを撒き散らす連中というのは。 「少しいいかね」 「スタルーク殿下に何か御用でしょうか」 事務的に答える。 殿下という響きに若干のごわつきを感じたけれども、この手の人間を相手にする際には言葉にも気をつけるよう、シトリニカに言われていた。
「君に用があるのだが」 苛立ったような口調で、片割れが言った。小太りの男だ。 年はラピスの父と同年代に見えたが、それがますます、男の嫌な表情を強調しているかのようだった。 もう片方はさらに一回りほど年上で、細面の顔に、猛禽類のように鋭い両目を光らせていた。頭は禿げ上がっている。 禿頭の男が言った。 「君は殿下に嘘をついているのではないか」 「えっ?」 どん、と心臓が跳ねた。
嘘。
そんなことは――否定しようとして、しきれなかった。 自分が村娘であることを、あのひとに知られたくなくて。とっさに出身地を偽ったことが、ある。 今まで、それを問題視されたことはなかった。第二王子の存在を、貴族達は軽んじていた。その、影が薄い第二王子の臣下である。誰も自分のことなど眼中に入れないはずで。 そう思っていただけに、動揺は大きかった。 貴族達が顔を見合わせる。ラピスは無理矢理頭を下げた。どうにかこの場を離れなくては。 「拙いなぁ」 小太りの貴族が言った。一転して浮かれた声なのを隠そうともしないのが憎たらしかった。 自分はいつまで冷静を保っていられるか、自信がない。ラピスはこぶしをひそかに握り締めていた。
「王城兵、それも殿下の直属の臣下ともあろう者が。そんな素性の知れない娘に務まるものか」 「ラピスの素性は、僕が保証します」 「――」 声がした。別人のように凜々しい声であった。 ラピスは声の方を見やった。いつの間にか扉が開いて、見慣れた人物が入室してくるところだった。 どうして、と思った。どうしてこの場がわかったのか。
歩み寄ってきた主君は、毅然としたまなざしを貴族達に向けていた。彼のうしろには、シトリニカも続いている。 貴族達が椅子から立ち上がる。 「彼女は忠臣です。陛下の足を引っ張ろうと躍起になっている、どこかの誰か達とは違います」 「ほぅ、そのような輩が。尻尾は掴まれているので?」 「今は、僕の臣下の話でしょう」 「……それもそうでしたな」 わざとらしい咳払い。 めまいがした。主君と相棒が助けに来てくれたこと。 主君に、自分の嘘が露呈するのではないか――こんなときに、保身に走ろうとしている自分が許せなかった。
しかし、現実として、貴族達は自分の秘密を知っている。 「お言葉を選ばれた方が宜しいのでは? 殿下の臣下を侮辱するのは殿下に敵意ありと見做されても、仕方がありませんよ」 シトリニカが険しい声音で援護射撃を飛ばす。 二人は一貫して、ラピスの味方だった。それなのに、自分は。 「とんでも御座いません」 と、貴族達は猫撫で声を揃えた。 王城兵になってから、ずる賢い人間の悪意というものを目にするようになった。或いは、耳で聞くようになった。 その上で、剥き出しの悪意が自分に向けられているのが信じられずにラピスは狼狽えていた。自分だけではない。今まさに、主君にまで悪意が及ぼうとしている。どうすれば……。 貴族達には、項垂れて、目だけで様子を窺うラピスが、さぞ滑稽に映ったことであろう。
彼らはいかにも愛想よく笑って、言うのだった。 致命的な言葉を。 「殿下。一つお伺いしてもよろしいですかな?」 「何でしょうか」 「殿下が庇おうとなさっている娘の出身地を、ご存じで?」 「……!」 ラピスは顔を上げていた。思わず、その場から逃げるように後退る。背中を支えられた。顔を覗き込んできたのは、シトリニカであった。 「大丈夫?」 「ええ……あ、あたしは」 自分の身を案じている場合ではなかった。貴族達の狙いは主君なのだから。 主君の方を見やる。
戦場で時折に見せる表情だった。 かつては、その横顔に頼もしさを感じた。ときには、危うさを感じる瞬間もあった。このときはどちらでもない。不安と恐怖。それでいっぱいだった。 「答えられませんか」 「まさか。彼女から聞いています。出身地は」 「ごめんなさい!」 叫んでいた。もう耐えられなかった。 主君に嘘をついたこと。 つまらない嘘のせいで、主君が傷つこうとしていること――
「ラピス?」 「あたし、本当は街の生まれじゃないんです。本当は」 「ラピスにも事情があったのよ」 シトリニカが言い添える。彼女に支えてもらって、ようやく立っているような状態だった。 嘘はいけないと思っていた。 いつか、本当のことを話さなければならない、と。 それがこんな、最悪の形になるとは。 絶望がゆるゆると押し寄せてくる。もう、主君の顔など見られない。
声だけを聞いていた。 「彼女はまだ若く、ときには判断を誤ることもあるでしょう。ですが、それだけのことです」 「殿下、それは苦しい言い訳ですぞ」 「そうでしょうか? 僕は事実を述べているつもりです」 主君は、そしてシトリニカは、ここまで追い詰められてもなお、劣勢を感じさせない声を保っていた。 ことに主君は、追い詰められたことで、より怜悧さに拍車が掛かったようだった。 揺るぎない口調で、主君は言う。 「たったそれだけのことで、彼女がこれまでに築いてきた武勲や忠誠が、なかったことになると? あり得ません」 「スタルークさま……」 つい、いつものように呼んでしまった。泣きそうな声で。 信じられない気持ちで。
瞬間、小太りの貴族が落雷のような声を発した。 「殿下の名を気安く呼ぶな! ええい、これだから農民というのは」 「民なくして、貴族は成り立ちませんよ」 シトリニカが舌鋒を向ける。 「あなた方こそブロディアの忠臣でありたいのなら、その考え方を改めた方が賢明でしょう。陛下の思想との乖離が大きすぎます」 「何だと!」 丸々とした顔を激怒の色に染め、貴族はシトリニカを睨めつける。 禿頭の貴族は、渋い顔で黙っている。片割れからの救援がないことを悟ったのか、怒れる貴族はその矛先を主君へと変えた。
「殿下。殿下は臣下達との距離が近すぎます。ましてや、そうも必死に庇い立てるとなると、その娘はまるで殿下の――」 「邪推はやめて下さい」 「そうです。殿下も彼女も、潔白そのものですから」 主君とシトリニカは、まったく動じていなかった。勝敗は決した。
***
「ラピス、ごめんなさい」 部屋を出るなり、主君は項垂れた。 「す、スタルーク様? いつものネガティブモードに戻ってる? それにしても、なんで謝って」 「僕がしっかりしていれば、彼らも君に接触しようなどとは考えなかったはずです」 「そんなことは」 どうして主君が謝っているのだろう、と思った。
悪いのは自分だ。自分が、つまらない見栄を張ったせいで。 主君は追い詰められ、相棒は嫌な思いをした。今も歩調を合わせてくれるシトリニカには、申し訳ない気持ちがあふれてくる。 「旧体制派が表立って動いたのは、確かに予想外ね。よっぽど自信があったのでしょうけど」 「よりによって僕なんかと……か、関係性を疑われるなんて……そんな不名誉なことって、他にないですよね……」 「スタルークはちょっと黙っていて」 「は、はい」 シトリニカは容赦がなかった。 「とにかく。一度仕掛けてきたということは、今後も攻撃は続くと見て間違いないわ。気を引き締めて」 「あの」 「どうかした、ラピス?」 「あの、あたし……しばらく、実家に戻ろうかな、って」 「どうしてですか!?」 戸惑ったような声は、主君のものだった。
「やっぱり、僕が不甲斐ないから」 「違います! そうじゃなくて……助けに来てくれたのは、嬉しかったです。本当に、嬉しかったんです。でも」 だからこそ、言わなければならない。 決意とは裏腹に、声は掠れた。喉に空気の塊を詰め込まれたように呼吸が苦しい。 言いたくなかった。 ずっと、二人と一緒にいたい。それが本心で。 けれど自分はまた、二人の足を引っ張るかもしれない。そんなことは許されない。
「……ごめんなさい」 それだけ吐き出すと、ラピスは駆け出していた。 走って、角を曲がって。ラピスがようやく足を止めたとき、傍らにいたのは相棒であった。 彼女は黙って、壁にもたれている。 その距離の取り方が、ラピスには有り難かった。 石の床にへたり込むように、息を切らして。 ようやく呼吸が整ってきたところで、シトリニカが口を開いた。 「落ち着いた?」 「少し……」 「そう」 気遣うと言うよりは、単に質問を投げかけるような口調。
「どうして、あんなこと言ったの」 「足手まといになりたくないの」 呻くように、そう答えていた。溜め息が寄越される。 シトリニカには、すでに打ち明けてある。 それこそ、彼女に素性を疑われた時期があったのだ。相棒は嘘の匂いに敏感だった。 そのときも、なぜ嘘をついたのかと彼女に訊かれた。対する自分の答えはシンプルであった。 自分の貧しい生まれを、知られたくなかった。 村を離れてすぐに、出身を理由にした、嫌なことがあったのだ。それで思い知らされた。 村で生まれ育ったというのは、恥ずかしいことなのだ。 ちょうどその考えに凝り固まっていた矢先に、あのひとと出会って。嘘をつくことに罪悪感はあったが、馬鹿にされたくない一心で、街の生まれだと名乗ってしまった。
偽ったところで、誰も得をしない。 むしろ露呈したときに足を引っ張るような、マイナスの嘘。 その嘘に逃げてしまったラピスの心を、シトリニカは理解してくれた。それが友情の始まりだった。 「あたしはまた自分の見栄のために嘘をついて、二人の足を引っ張るんじゃないかって」 「それはないわ。だってラピス、嘘が下手だもの」 「シトリニカ……」 断言してくれる相棒が心強く、だからこそ、胸が痛んだ。 「それに、スタルークを攻撃する口実なら、わたしだってなり得るのよ。幸い、先の戦でそれなりに戦果を挙げたから、以前ほどあからさまではなくなったけど」 「あなたはそうやって克服できるから」 吐き出した言葉に、ぞっとした。慌てて頭を下げる。
「ごめん、シトリニカ……今、あたし……」 「だいぶ参っているみたいね」 シトリニカはこちらを責めない。ラピスには、それが辛いのだった。 項垂れて、視線を逃がしたまま言う。言い訳のように。 「今のあたしは、こんなに酷い人間なのよ。自分のことが信用できないの……だから、あの方の傍にはいられない」 「それは献身? それとも保身? それだけ答えて」 「わからない」 保身だというのなら、いっそ、臣下の座にすがりついた方が楽なのだ。何があっても、二人は自分の味方をしてくれる。守ってくれる。 それが許せなくて、自分には相応しくないような気がして――それで一度は自分の居場所と決めた場所から、去ろうとしているのだった。 一方で、献身と呼ぶには、今の自分の思考は、あまりにも。 シトリニカが再び溜め息をついた。
「重症ね」 二人の会話は、そうして断ち切られたのだった。
***
「村に帰らせて下さい」 その言葉を聞くなり、主君は首をかしげた。 「どういうことです?」 「今回の件で、はっきりしました。あたし……いえ、私は、殿下の臣下に相応しくありません」 「ラピス」 殿下という言葉が、破片となって舌に突き刺さる。 この期に及んで、まだ心は抵抗を続けている。それこそ、駄々っ子のように泣き出してしまいたかった。
けれども、それは自分には許されない甘えで。 「ラピス。先程のことは、君が気にするようなことでは」 「殿下に嘘をついていたのです」 「僕は気にしていません」 口論に持ち込まれたら駄目よと、別れ際にシトリニカは言っていた。 彼は口論にはめっぽう強いのだから、――と。 「約束したじゃないですか? お互いのことをずっと、守り合っていこうと。なのに」 「こちらにはもう、戻らないつもりです」 情にほだされる前に、会話から背を向けていた。シトリニカはこの時点で説得を諦めてくれたけれども。 「シトリニカには、君が必要です。彼女は一人で無理をしてしまうたちですから。君のような友人が必要なんです。……僕にとっても」 「殿下」 鋭い口調になっていた。根底には、拒絶の色が流れている。
主君もそれを汲み取ったらしい。不意に声音から、強いものが抜けてしまう。 「そうですよね……僕のような頼りない主では、ラピスが不安に思うのも無理はないです」 「そういうわけでは」 「いいんです。わかりました。……守ってあげられなくてごめんなさい、ラピス」 「……失礼します」 破片が、全身に廻ったようだった。 縦横無尽に駆け抜ける痛みに全身を苛まれながら、ラピスは主君の部屋を辞した。
靴底が粘りつくように重かった。それを無理やりに引き剥がして、足を進める。言えた。言うべきことはすべて。 その上で、伝わらなかった。 彼を傷つけてしまった。 ――自分はいったい、何をやっているのだろう? 呆れ果てて、涙も流れない。代わりに思考が流れていく。 手紙を書き換えなくては。否。手紙はもういらない。手土産を持参して、自分が帰れば済むだけの話で。 ここまで考えて、思った。
――自分はいったい、何がしたかったのだろう? 恋した相手との未来はない。ならば、生涯お仕えしようと。あのひとに新しい家族が出来て、そうなればあのひとは妻と子供を第一に考えるのだろう。優しいひとだから。 そうなっても、惨めにならない程度には、心を鍛えておこうと思ったのに。実際はこの有り様だった。 悲しかった。 悔しかった。 離れたくなかった。 でも、そんな駄々をこねる自分は、封印してしまわなければ。
「帰ったらいっぱい、親孝行しなきゃ」 そう結論づけ、他には何も考えないようにした。 そうでなければ――
「ぐ」
自分の部屋に辿り着いて、扉にもたれ掛かる。ど、と押し寄せてきたのは嗚咽だった。 ラピスはその場に頽れていた。 感情は崩壊した。叶わない恋に恋をした、弱い自分を放逐する作業を経て。
程なくして、彼女は王城を去った。 その顔はいっそ、晴れやかであったという。
***
「新しい臣下を選ばなくてはね」 と、シトリニカは言った。普段通りの口調だった。 彼は幼なじみを振り返ると、微かに首を振ってみせた。 「しばらく、このままでは駄目でしょうか」 「駄目よ」 シトリニカは、腰に手を当てて言う。 「わたし一人でもあなたを守り抜くつもりだけれど、万が一ということもあるでしょう。……こんなことを言うのは負けたみたいで、恥ずかしいのだけれど」 「それだけ彼女に頼っていたところが大きかったんだと思いますよ、僕達は」 「……確かにね」 部屋には二人の他には、誰もいない。見張りの兵も、部屋の中までは干渉してこないのが常だった。おかげで彼も、比較的にリラックスした状態でいることが出来た。かつては。
ラピスが王城を去ってから、半月。シトリニカとしては、頃合いを見てくれたのだろう。 もしくは、自分が慣れるまでに、これだけの日数を費やしたのか。 どちらだとしても。 「それにね」 心持ち顔を顰めて、シトリニカは一通の書簡を取り出した。
何となく察しはついたが、あえて訊いてみる。 「それは?」 「スタルーク。あなたは、誰かと結婚する気はある?」 「それは……」 意地の悪い質問だと思った。同時に、シトリニカは自分を追い詰めている。 貴族や王族の子として生まれた以上には、避けられない道だ。 「陛下がそう、命じられるのなら」 「その陛下はね、あなたの好きにするように、の一点張りなのよ」 「兄上が……?」 「そう」 シトリニカは書簡を卓上に置いた。
「難しいわよね。相手を愛せるかどうかなんてわからない。だって、顔を合わせる前に、もう婚姻は決まっているんだもの」 「どんなひとが候補に挙がっているんです?」 「色んなひとよ。綺麗なひとから、聡明なひとまで。――いるのは貴族の娘ばかりだけれど」 「――」 心臓に張り手を食らったかのようだった。 とっさに言葉が出てこない。 面食らった衝撃のまま、まばたきをしていると、彼女は呆れたように溜め息をついて言うのだった。 「あなたが望めば、ブロディア貴族の娘の大半以上は妻に出来るわ。でも、あなたはそれでいいの?」 「何が言いたいんですか」 彼女にしては、回りくどい言い方だと思った。自分でもそう思ったのだろう。唐突に言った。
「農民の娘とは、結婚出来ない。普通に考えれば」 「……シトリニカ」 君まで何を言い出すんですか、と。今度は彼が呆れていた。 最初から選択肢にないと、彼は言いかけて。 「な」 「何かしら」 「ななななっ……何を言い出すんですか!? ラピスとは本当に何も」 「ラピスと限定した覚えはないわ」 それもそうだった。彼は釣り上げられた魚のように、口をぱくつかせるしかなかった。 それをいいことに、シトリニカの持論はいよいよ冴えてくる。 「そういえば、あなた貴族達にラピスとの関係を邪推されたときには、妙にこだわっていたわね。いつまでもブツブツ言っていたし。ひょっとして、嬉しかったのかしら?」 「んな……っ」 それはない。是が非にも否定しなければならない。
彼は強い口調――というか、取り乱した口調で――言った。 「そんなの、ラピスに失礼じゃないですか!」 「そう、それよ」 「それって」 「ラピスに悪い、失礼だって。スタルークってばそればっかり。わたしは、あなたがどう感じたかも大事だと思うわ」 「……」 言われてみれば、そうだった。自分。自分はどうなのか。
まず、下卑た目を向けられたのは不本意だった。 ラピスの名誉のためにも、この点は強調しておかなければならない。 自分だって、そんな。彼女のことを変な目で見たことは…… 「わかりません」 「嘘。顔が真っ赤よ」 「シトリニカ」 「いいじゃない、わたしはお似合いだと思うけれど。結婚の問題も解決するわけだし」 「そんな畏れ多いことを言わないで下さいシトリニカぁ!」 この場にはいないラピスに、土下座をしたい気分だった。シトリニカの話を真に受ければ、自分はラピスに恋をしていることになるのだが。 それこそ、迷惑の極みであろう。自分のような男に好かれるなど。
「とにかくわたしは今後、あなただけじゃなくて、あなたの家族のことも守らなくちゃいけないの」 「僕の、かぞく」 ひとしきりからかって満足したのか、シトリニカは話題を改めた。彼は依然として熱いままの頬を擦りながら考える。 自分はこれでも王族だ。いずれは妻を娶ることになる。 だが、その先は考えたことがなかった。考えるのを、心のどこかで拒否していたのかもしれない。理由は判然としなかったけれども。
「わたしは、ラピスに帰ってきてもらうのがいちばんだと思うけど」 「それは無理ですよ……だって」 さいごに交わしたやり取りを思い出す。ラピスの口調には、そして瞳には、強い拒絶があった。 無理もない、と彼は思う。自分は彼女のことを、守ってやれなかったのだから。失望されるのも当然だった。 「……この話は先延ばしね」 「すみません」 「わたしだって、自分が当事者だったら、きっと冷静ではいられなかったと思うわ。難しい問題よね」 そう言って、シトリニカは椅子から立ち上がった。彼女こそ、たいへんな立場なのだった。今の話も、兄に報告に行くのだろう。
「だけど」 と、扉の前でシトリニカはこちらを振り返る。 「何です?」 「ラピスはあなたに失望したわけじゃない。それは間違えないであげて」 扉が閉まった。自分一人になった部屋で、彼は頭を抱えた。
***
母親似の彼は、兄と並ぶと、女の子のようだとよく称された。 そのたびに幼い彼は顔を赤くして、項垂れた。 母のことは好きだ。 だが、それとは別に、彼は自分の立場のことを思った。 武力の国の第二王子が、少女のように弱く、頼りない――周囲にとっては、それほどの意味があっての評価ではなかったのだろう。
彼が勝手に気にしただけである。 しかし、彼は途方に暮れた。その様子に気付いた父が、彼をひょいと持ち上げて、肩車をしてくれる。兄が笑ってこちらを見上げてくる。 父も兄も優しかった。誰も自分を責めなかった。 それが、何よりも不自然に思えた。本当ならば、役立たずの自分はここにいるべきではない。なのに。 ――おとうさま、おかあさま、おにいさま。 みんなのことが大好きです。いつかきっと、こんなぼくでもお役に立ってみせます。だから、そのときまで――
***
夢を見ていたようだった。 いつの間にか、机に突っ伏して眠っていたのである。 涎でも付いていまいかと、彼は口許を拭った。幸いにして、何も付着するものはなかった。 (そのときまで……どうか、ご無事で) 夢の続きを、心の中で思う。父は先の戦で斃れた。異形兵となった父に慈悲を与えたのは彼であった。 さいごに父は微笑ったように思う。強く生きろと、言って散った。 その言葉に、報いているだろうか? ――否。不甲斐ないやつだと、父は自分を叱るに違いない。
彼は無言のまま、思案する。 自分宛に陰険な策を巡らせる勢力が存在するのは知っていた。 もっとも、彼は少しも気にしていなかった。 自分のような存在には相応しい扱いだと思っていた。 ただ、それを裏で処分し続けているシトリニカには、申し訳ない気持ちがあった。 そうだ。自分は、結局。 口では守ると言いながらも、その実は守られてばかりで。 悪意の矛先がラピスに向いたときにも、自分は無力だった。気付いたときには、彼女の心は砕かれていた。
彼女は糾弾されるほど、酷いことをしただろうか? 確かに、出身地を偽っていたのは事実だった。 だが、それは些細なことである。 ブロディアでは武勲こそが尊ばれる。そして、彼女はその武勲だけで彼の臣下にまで上り詰めたのだった。 彼が彼女の姿をはじめて見かけたのは、王都で開かれた武闘大会でのことだ。女性の参加者は珍しく、中でも彼女は最年少だった。 自分より一つだけ年上で。身体はずっと小柄で。 その彼女が、大剣を振るって屈強な戦士に挑みかかる。勇猛果敢な姿に、憧れに近い高揚感を覚えた。 彼女が勝利したときには、こっそり、喜んだ。 特定の参加者に感情移入してはいけない立場だとわかっていながら、彼女を応援せずにはいられなかった。兄とシトリニカは、意外そうな顔をしていた。
大会の優勝者として彼女が自分の前に立ったときには――満足に口を利くことが出来なかった。 遠くから眺めているのとは違う。感情移入の反動は大きかった。 もっとも、緊張しているのは彼女も同じようだった。おかげで気まずい空気が流れた。シトリニカが助け船を出してくれなかったらと、そこまで思い出して。
たぶん。自分はずっと、ラピスに憧れていたのだ。 彼女の強さや、年相応なひとときや、意外な逞しさを見た瞬間。 彼女が傍にいてくれるのが嬉しくて、甘えていたのだろう。
その結末が、これだ。 ラピスはもういない。故郷の村に戻ると言っていた。 こちらにはもう戻らない、とも。 「……っ」 衣服越しに、左胸を押さえていた。 内側から瓦解するような痛み。 ラピスがいない日常。 それ以外は、残酷なほど何も変わらない。 シトリニカには苦労をさせている――縁談だったか。いつまでも逃げているわけにはいかない。いずれ、結論を出す必要はある。 また、胸が痛んだ。 とてもそんな気にはなれない、と本心が訴えているようだった。
――いるのは貴族の娘ばかりだけれど。 農民の娘とは、結婚出来ない。普通に考えれば―― シトリニカの言葉が引っ掛かっていた。 彼女は、ラピスが戻ってくるのがベストだと考えているのだという。 自分だってそうだ、本当は。
(ラピスに会いたい) 唐突に降ってきた結論は、それだった。 会ったところで、また拒絶されるかもしれない。それでも。 会って、謝罪しなければ。 臣下一人も守れないような、不甲斐ない主君でごめんなさい。こんな僕がブロディア王子でごめんなさい。でも。 もう二度と、誰にも君を傷つけさせたりしないから。 「……行かないと」
***
ラピスは鍬を振り上げた。 渾身の一撃は狙いを違わずに、地面へと突き刺さった。規則正しく土を耕す音が響く。 「姉ちゃんが帰ってきてくれて、心強いよ」 弟は土まみれになった顔で笑う。ラピスは苦笑して、弟の顔をタオルで拭ってやった。 「でも、何だか勿体ない気もするなぁ」 妹はそう言って唇を尖らせた。 「どうして?」 「だって、王城兵になるのって大変だったでしょ? お姉ちゃんが大会に向けて頑張ってるの、見てたし……」 「いいの」 ラピスは妹の頭を撫でた。ゆっくりと首を振る。
自分を諭すような口調で言った。 「もう、いいの」 突然の帰郷に、家族どころか、村全体が驚いていた。 辺鄙な村から王城兵を送り出したとあって、ラピスは村の英雄のような扱いであった。 村に戻った当日も、ほとんど村の住民総出で質問攻めに遭ったものである。ただし、ラピスがあまり多くを語りたがらないのを見てからは、興奮の波も引いて、村は日常に復していた。
有り難いな、とラピスは思う。 家族は村を出る前と同じ態度で接してくれる。弟妹はいまだに姉の武勇に未練があるようだが、いずれわかってくれるはずだ。 「……? どうしたのかしら」 何か、村門の辺りが騒がしい。 怪訝に思っていると、母がやって来た。少し慌てた形相だった。 「ラピス、早く村門に行きなさい」 「お、お母さん? どうしたの、そんなに慌てて」 「王都から人が来たんだよ。お前の知り合いじゃないのかい」 「え……」 シトリニカだろうか、と思った。 他に訪ねてきそうな者など知らない。否。彼女は多忙な身だ。 だとしたら、いったい誰が――
「ひょっとして、男の人?」 ふと、そう訊いていた。深い意味などなかった。ましてや、期待をしたわけではなくて。 「そう。青髪で、綺麗な顔をした子だったね」 「そ、そうなんだ」 心臓が跳ねた。該当する人物は、ただひとり。 家族に心配はかけたくない。ラピスは村門に向かうふりをした。だが実際には、周囲の目を盗んで森へと逃げていた。 子供の頃に遊んだ思い出が、木立のあちこちに散らばっている。 懐かしさに目を細め、ついで胸を痛める。
(どうして、スタルーク様が) ちいさな村だから、道も満足に開拓されていない。王都からも離れている。ここまでやって来るまでに、かなりの苦労があったに違いない。 そこまでして、自分に会いに来てくれたのか。 ――この期に及んで、喜んでしまう自分がいた。主君が村を訪ねてくる理由は、他にないのだから。 (だけど……会えない) 会ったらきっと、戻りたくなってしまう。もう一度、あのひとを拒絶するための勇気がないことを、ラピスは自覚していた。 暗澹とした心地で視線を向けた先、――茂みが大きく揺れた。
「な、何?」 獣か、とラピスは身構える。 もう一度茂みが揺れた。現れたのは子供の熊だった。あれ、とラピスは思う。この時期に小熊が一匹でいるのはおかしい。 母熊とはぐれたのか、それとも。 「動かないで下さい」 静かな声がした。ラピスはそもそも、その声を聞いた瞬間に動けなくなってしまった。引きつった頬に涙が一筋、すっと流れた。 「向こうに親と思しき熊が見えましたから」 「そう、ですか」 どうしてあなたは、と、ラピスは内心で呟かずにいられない。 誰かが自分が森へ行く姿を見ていて、教えたのだろうか。
否。 そんなことはどうでもよかった。本当に大事なのは、ただ一つ。 「すみません、小熊さん」 おそるおそるのように、小熊に話しかけている。 「僕なんかに謝られても迷惑なだけだというのは重々承知の上ですが、どうか母君のところへお帰りになって下さい……!」 「あの、スタルークさ」 「大事なひとなんです。もう、このひとが傷つく姿を見たくないんです。だから、お願いします!」 言葉が出なかった。今、彼はなんと言った? 大事なひと。 それは、誰が。今、この場にいるのは自分と、このひとだけで。
「あたしからも、どうかお願いします」 ラピスも頭を下げていた。 「あたしにとっても、大事なひとなんです」 「……」 小熊は黙ってこちらを見つめてくる。話し合えばわかり合える、というのがラピスの信条だ。動物相手であっても、誠意を尽くして然るべきだと考えている。 ましてや、相手は小熊だ。攻撃して追い払うわけにも行かないし、何より状況を誤解した母熊に襲われるのは、何重にも及ぶ悲劇である。
沈黙――。 その気まずさといえば、ラピスにこれまでの自分の所業を振り返らせ、苦しめるのに十分すぎるものだった。 話し合えばわかり合える? あのひとを一方的に拒絶して、話すら聞かなかったくせに。それなのに、今更、いい人ぶって。 (やめてよ) あのときは、他にどうしようもなかったのだ。少なくとも、あのときの自分に出来たのは、耳を塞ぐことだけだったのだから。 本当に?
「あ、熊さんが去って行きます! よかった……」 安堵したような主君の声。 緊張が途切れた。ラピスはめまいを感じた。ふらりとよろけたところを背中から抱き留められて。 「大丈夫ですか」 「は、い……すみません、スタルーク様」 「いいんです。怪我がなくてよかったです、ラピス」 無邪気なまでに、再会を喜んでくれている。小熊も去った。驚異はなくなり、途方に暮れる自分が残された。 「あの、どうしてこんなところに」 「ラピスに会うためです」 「そんな珍しく力強い断言をされても困るんですが……えっと」 シトリニカはいないようだ、というのが、最初の思考だった。もしくは、思考に擬態した感想だった。 彼女がいてくれれば、巧く場を取り持ってくれるのに。
「――って、すみません! またこんな、誤解を招くようなことを」 名残惜しいほどあっさりと、腕が、身体が離れた。 振り返ると、ようやく主君と目が合った。長い睫毛に彩られた緋色の双眸。 顔全体には、困ったような表情を浮かべている。 「あたしはおかげで、転ばずに済みました」 「で、でも」 「スタルーク様はたぶん、無自覚に誤解を振りまくひとなので。謝ってもらっても、今更感が拭えないです」 「そんなぁ!?」 泣きそうな声を上げる主君だった。
ラピスはちょっと言葉が厳しかったことに気づき、申し訳ない気持ちになる。どうしてだろう。主君に優しくされると、かえって自分は身構えてしまう。 ――本当はわかっていた。 誰よりも、自分が、彼の言動に期待してしまうから。 その期待の先に、何もないというのに。 わかっているくせに、嬉しくて。 「ラピス」 「何、でしょうか」 「一緒に帰りましょう。……僕は確かに不甲斐ない主です。君に失望されるのも無理はありません」 「スタルーク様に失望したわけでは」 そうだ。この誤解だけは、解いておかなければ。
ラピスは慌てて言う。 「あたしは、自分に失望したんです。つまらない見栄を張って、あなたやシトリニカの足を引っ張るような……そんな自分に」 「ラピス……」 「おそばにいられないと思った理由は、それだけじゃないんです。あたしはスタルーク様のことが」 言うべきかどうか、迷った。 口にすれば、もう引き返せない。それでも。
「スタルーク様のことが、すきです」 「! ラピス……」
言ってしまった。 それに対する後悔はなかった。しかし、主君はどう思うだろう。 見開かれた双眸がじっと、ラピスを見つめてくる。気まずくなって視線を逸らしていた。 木立の間の薄闇へと視線をたゆたわせながら、言った。 「この気持ちは、臣下として相応しくありません……だから」 結論が出てしまった。 畢竟、自分は自分の恋心に負けたのだ。 恋心を制御できなくて、重くて、苦しくて。逃げ出したのは都合のいい口実が見つかったからに過ぎなかった。
なんて、情けないのだろう。 身体を鍛えても、武勲を得ても。肝心な心が弱いままで。 「う、嘘ですよ。そんな、僕みたいなやつをラピスが」 「嘘じゃないです! 嘘だったら、どんなによかったか……本当だから困っているんです」 「そ、そうですか……すみません」 主君の声は、パニックの色を帯びていた。顔を見なくても、どんな顔をしているか、想像が出来てしまう。
「あの、ラピス」 「迎えに来てくれたことには感謝します。でも、王都にはもう」 もう、話すことはないと思った。主君に向かって一礼をすると、ラピスは歩き出す。 「ごめんなさい、……さようなら」 「ラピス、待って下さい!」 逃げ出そうとするよりも一瞬早く、主君の手がラピスの手を捕らえていた。
あまりにもまっすぐな、泣き出しそうなまなざしが、そこにあって。 「僕もです」 「え? スタルーク、さま」 「拒絶してくれて構いません。迷惑だってわかっていますから。それでも言わせて下さい。僕はラピスのことが好きです。……好きなんです」 苦しみの渦中から絞り出すような、掠れた声。 返す言葉が、なかった。 ただ驚いて頭の中が真っ白になって、ラピスは主君の顔を見つめるしか出来なくなっていた。
ふい、と主君が目を逸らす。 「本当にごめんなさい。僕なんかに告白されても嬉しいはずが」 「嬉しいに決まってるじゃないですか!?」 やっと声が出た。それは呆れの色に染まっていた。 「だってこれって、両想いってことじゃないですか。嬉しいですよ、そんな夢みたいな……」 「……そうですね。僕も信じられません」 二人とも、すっかり懐疑的になっていた。ほかならぬ自分達のことだというのに。
打開策のつもりなのか、主君が言った。 「ラピス。抱き締めてもいい、でしょうか……?」 「は、はい……どうぞ……」 「それでは、失礼して」 おずおずと伸ばされた両手が、ラピスの背中に添えられる。導かれるように一歩、歩を進めていた。主君との距離が近付く。 衣服越しに、胸が密着した。砕け散ってしまいそうなほど、リズムは乱れている。 それが自分だけではなく、主君も同じなのだと知って、ラピスは安堵を覚えた。抱き寄せられるまま、主君――スタルークという青年の存在に身を預ける。
会えなかった時間が、じわじわと埋まっていく気がした。 「ずっと、僕のそばにいてくれますか」 「はい……あたし、もう逃げません。誰に何と言われても、何があっても、スタルーク様をお守りします」 「僕も、今度こそ、必ずラピスを守りますから」 崩れそうになっていた、約束の再会。
それはふたりの心が通い合った瞬間のことであった。
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